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カルチャー

「なぜ?」から発見へ、詩人 最果タヒの詩が持つ不思議な魅力

タロウ

膨大な情報が絶え間なく流れてくる日々の中で、「なぜ?」と深く考える機会が減っているように感じます。私自身、与えられた情報を「そういうものか」と疑うことなくそのまま受け取ってしまいがちでした。そんな私が、「分からないけど面白い」最果タヒさんの詩との出会いをきっかけに、日常の中で些細な疑問を持つようになったことについて、ご紹介します。

きっかけは衝動でジャケ買いした、とある詩集

私は漫画や小説が好きです。ですが、社会人となり学生の頃ほど時間と余裕がなくなり、読書時間が減少しつつある現在。シリーズの新刊を見つければ購入はするものの、フィルムに覆われたままの状態で本棚に並んでしまっています。未読のまま積み上げられていく書籍、いわゆる「積ん読」ばかりが増えていきます。

それでも時々「何か本を買いたい」という欲求のまま衝動買いをし、さらに積ん読を増やすこともしばしばあります。そんなある日、表紙デザインが目につき、勢いのまま購入したのが最果タヒさんの詩集でした。

最果タヒ(さいはて たひ)
詩人・小説家・エッセイスト。1986年、神戸生まれ。2007年、第一詩集『グッドモーニング』を刊行。同作で中原中也賞を受賞。以後の詩集に『空が分裂する』、『死んでしまう系のぼくらに』(現代詩花椿賞)、『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、『愛の縫い目はここ』がある。2017年に刊行した『千年後の百人一首』(清川あさみとの共著)は、古典を詩の形で現代語訳した詩集ともいえる作品。

『16度の詩』以下全文

バスのなか、長方形の光につつまれて、

わたし、冷蔵庫にねむる氷みたいだった。

どうして、うつくしいものは、いつも近づきすぎると生々しく、

わたしを呪うようにうごめくのか。

この季節の空気は、

透明のエイやイルカがすぐそばを泳いでいるような、

そんななまぬるさ、やわらかさ。

生き物なのかわからないのに、

それ以外に、どう呼べばいいのかもわからない。

みんな、かわいそうで、みんな、残酷。ですね。

あなたを溶かすことなどできないのに、

あなたは私に近づいて、

けずれて、痛みに泣いている。

出典:『16度の詩』全文 – 最果タヒ(2018)『天国と、とてつもない暇』小学館

日本語なのに分からない!意味を理解できない!

素直に、書かれている意味がさっぱり分かりませんでした。使われている漢字が難しいから分からない、ということではありません。日本語なので当然読めますし、音読もできます。しかし、意味を理解できない。母国語の日本語であるのに、文章を何往復しても私の脳は書かれている意味を読み取ることはできませんでした。今、読み返しても恐らく理解できないだろうと思います。

同じ詩集の中にある、もう一編の一部も紹介します。

としをとるということは、ぼくが終わっていくのではなく、

世界が終わっていくということなのだけど、

きみがいつも出かける西の果てにはなにもなく、

白い海と白い空が混ざりながら光っている。

そこへ向かうきみの体と、そこから帰ってくるきみの体が、

同じなのかはわからない。

ただ、きみはきみの家を知っていて、

鍵を持っていて、冷蔵庫の中身を覚えている、

だから、今晩もここで眠る。

出典:『100歳』以下、一部抜粋 最果タヒ(2018)『天国と、とてつもない暇』小学館

「分からない」ということに抱いてきた、負のイメージや感覚

分からない、理解できない。

これまで自分の理解が及ばないものごとは、ストレスとなってきました。最初のうちはどうにか理解しようと試みても、結局はいつも理解することを諦め、次第に無関心になっていくばかりでした。この流れで考えると、何度読み返し考えても分からない詩は、まさにストレスと同じカテゴリーに入るはずです。しかし、最果タヒさんの詩はそうではありませんでした。

意味を汲み取れないのになぜか面白く、惹かれていたのです。気付けば最後のページまで読み終えてしまっていて、それほど熱中していた自分に驚いたことを覚えています。読んだ後の私の感想は、『意味は分からない。だけど、何となく好き』という何とも曖昧で不思議なものでした。

インターネットが当たり前にある現代では、検索すれば大抵は回答が返ってきます。検索結果の情報が事実かフェイクかという問題はありますが、それでも一応何らかの回答は得られます。

だからこそ、正解が存在するときの『分からない』は苦しいです。私の中にこの意識が生まれた要因は、学校での学習経験にあるのではないかと思います。これまで受けてきた学校教育では、用意された一つ、あるいは複数の正解がある問題について考えてきました。つまり、すでにある正答を導き出すことが多く求められてきました。こうした経験の蓄積から少なからず、不正解は怖い、恥ずかしい、避けたい、といった負のイメージや感情が伴って、無意識に「理解できない=不正解」の方式が私の中にでき上がっていたような気がします。

理解できないのに面白いと感じる、ストレスではなかったのは、なぜ?

詩について調べたところ、詩の楽しみ方は読み手ごとに違うとのことでした。そもそも詩には正解がなく、作者の意図や込められた思いがあるとしても、読み手は自由に読むことが許されていたのです。詩には、解釈を読み手である私たちに委ねてくれる自由さがあります。絵画、小説、音楽などの芸術作品は、鑑賞者に想像する余地を与えてくれる側面がありますが、特に詩にはその側面を強く感じます。正解も不正解もないからこそ、理解できないのにストレスではなかったのかと、ハッとしました。

また、自分で詩を解釈し『こうかもしれない』と一度納得したあと、改めて読み返すと、『いや、やっぱり分からないな』と思うことが多々あります。一歩進んだかと思えば、一歩戻る。わずかな違和感と奇妙な心地よさがあったりします。読むたびに変化があること、この感覚が面白いのかもしれません。

「なぜ?」を考え、突き詰めていくことは自分を知るきっかけにつながる

私が詩に対して抱いた感想は、深堀りしていくことで、自分自身を見つめ直し知るきっかけにつながるということです。『自分はもしかしたら○○かもしれないな』と、少しだけ客観視することができます。

例えば、次の短い詩について考えてみましょう。

美しく美しくと泣いている骨でも肉でもないぼくの湖

出典:『美しくと』- 最果タヒ(2023)『不死身のつもりの流れ星』PARCO出版

この詩について考えてみたとき、「ぼくの湖」は「心」を表しているのではないかと私は解釈しました。少しの振動で水面が揺らぐ様子は、目まぐるしく移り変わる人の心や感情に似ているように感じたからです。次に連想したのは、「目」でした。「泣いている」という直接的な表現から、そのまま目から涙が流れる光景を思い浮かべました。さらに眼球は常に水分を含んでいるため、「湖」とも関連付けられます。ここで一つの疑問が現れます。

では、なんで自分はそう思ったのか?

考え始めると連想ゲームの要領で次々と疑問が浮かんでいきます。そして、次第にどうして自分がそう感じたのかが気になり、いつの間にか詩から自分へと視点が変化していました。

この気付きをきっかけに、日常的に「なぜ?」を考えることが増えていきました。例えば、『この人苦手だな』と感じることがあります。その日に知り合ったばかり、かつ会話をしたのは数分程度にもかかわらず、苦手意識が生まれ漠然としたわだかまりが残ることがあります。

なんで自分はこんなにもモヤモヤしているのか?相手のどこがそんなにも苦手なのか?

こういった疑問が次々と浮かび、自分でも気付かないうちにモヤモヤとした感情よりも「なぜ?」のほうへと意識が向いていました。会話の内容、相手の行動や仕草などを振り返り、特に引っ掛かりが強い言動を挙げていった結果、その人が「周囲への配慮が欠けた発言」をしているためという理由に至りました。

『なんだ、そんなこと誰でも苦手だろう』と拍子抜けしてしまいますが、言語化し明確になったことでモヤモヤは解消され、自分の苦手なものという新たな発見になっていました。

ここで「自己分析」という言葉を思い出しました。私にとって、自己分析という言葉は就職活動でぶち当たった高く大きな壁でした。しかし、避けては通れない強敵であり、私はまんまと苦しめられました。自分のことを考えることはまったく楽しくも面白くもなく、周囲の人に聞き回り、何とかひねり出した苦い思い出です。今でも、自己分析という言葉を聞くだけで、思わず眉が寄ってしまうほどには苦手です。

あれほど苦しんでいたのに、詩をきっかけにすると、自然に自分について考えられていることにとても驚きました。苦しくない、そのうえ不思議な感覚に面白さを感じていました。

自分に関して「なぜ?」を考えるときの感覚は非常に独特です。自分のことなのに、ぽつんと立っている他人を眺めている心地がします。『なんだ、そんな考えをする人間だったのか』とまるきり他人ごとのように感心してしまうのです。好きなこと・ものと楽しく向き合う延長線で、結果的に自己理解へとつながる。このことに早く気付きたかったと、少し悔しい気持ちです。

詩をきっかけにした、「なぜ?」「分からない」との対話を続けること

すっかり最果タヒさんのファンとなった私は、彼女の詩集を買い集めています。詩そのものも魅力ですが、彼女の詩集はどれも表紙デザインが個性的でつい集めてしまうのです。抽象的なデザインに惹かれてしまいがちな理由についても「なぜ?」を考えたいです。

詩を一つ読むごとに、「なぜ?」を自然と考えています。詩だけではなく、日常的に疑問を持ち「なぜ?」を問いかけることが多くなりました。

また、「なぜ?」の探求が習慣化するようになると、感情的にならず冷静でいられるようになった気がします。例えば、苛立ったときでもその理由を挙げていくうちに、ある程度心が落ち着いていたりします。これは、原因が明確化したことで自分を客観視できるようになったことと、「なぜ?」に意識が逸れたことによって苛立ちの継続時間が短くなったからだと思います。つまり、理由を辿ることは自己理解だけではなく、アンガーマネジメントにも一役買っていたりするのです。

今後も、詩を楽しみつつ「なぜ?」を考えて、「分からない」と向き合っていけたらいいなと思います

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  1. アバター
    ごーるどしっぷ

    萩原朔太郎や宮沢賢治の詩集が好きなのですが、同じ読書という行為であっても小説を読むことと違い、思考や感性の幅が遠く広くなる感覚があります。とても共感しました。是非最果タヒさんの作品も読んでみたいと思います。

    • タロウ
      タロウ

      お読みいただきありがとうございました。最果タヒさんの作品は、詩集だけでなくエッセイも面白いので是非!

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犬好き広報
IT企業で広報業務をしています。趣味は漫画アニメ鑑賞と大型書店の探検、散歩中の犬を眺めることです。
最近の悩みは、脂っこいものや生クリームがきつくなってきたことです。
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