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カルチャー

ぼっち哲学者スピノザが示した、自然の普遍的構造と人間の存在とは

山中 哲人

「異端の哲学者」と言われ、生前から忌み嫌われてきたスピノザ。自然の普遍的構造、相対的な意味の排除、理性と感情というテーマは、彼の主著『エチカ』において、深く探求されました。スピノザの哲学は、自然の真理を追求し、人間の感情と理性の本質を解明しようとするものでした。そんな孤高の哲学者の魅力とは何なのか、20年来惹き続けられてきた筆者が語ります。これらのテーマは、今日のビジネスユーザーにとっても非常に関連性があるはずです。

『エチカ』は、自然の普遍的構造や人間の感情を、科学以上に明らかにしようとした問題作

スピノザが主著『エチカ』で言わんとしたことはとてもシンプルで、自然の最も普遍的な構造を描き出した哲学だと、私は考えています。この本は、定理や公理、証明から成る、幾何学的な叙述による難解な作品ですが、スピノザは自然を解釈する際、そこから一切の「相対的な意味」を排除しました。

例えば、太陽が恵みだというのは、人間から見た一つの解釈であり、あくまで人間から見た太陽の機能にすぎません。しかし、太陽も人間も存在しているのであるからには、バラバラに偶然に存在しているのではなくて、同じ一つの必然性の下に存在しているという普遍的な「構造」を備えているはずです。この構造自体は、いくら科学の進歩によってその宇宙のメカニズムの解釈がリニューアルされたとしても、変わらないはずだというのが、スピノザの哲学のメッセージの核心だと思います。

「真に存在するのは無限な実体のみで、森羅万象はその様態、現れにすぎない」という『エチカ』の世界観も、森羅万象の現象に先立って、それらが存在できるための普遍的な構造がある、という一つの宣言でした。これは、科学の確実性を超えて、自然の構造のみを浮き彫りにしようというチャレンジングな試みでした。科学が明らかにするのは、自然の機能でありメカニズムですが、それを実現する根本の構造があるはずです。これを明らかにせずにはいられなかったのがスピノザです。

迫害と破門という「究極のぼっち」として扱われた哲学者スピノザ

バルフ・デ・スピノザ(1632-1677)は、キリスト教徒からはユダヤ人として迫害され、ユダヤ人のコミュニティからも破門され、財産を自ら放棄して身寄りもないような境遇でした。そんな究極の独りぼっちの世界を自ら望み、思索することだけにすべてを捧げた哲学者です。

『エチカ』はスピノザの死後に出版されましたが、それは生前に出版したら、恐らく生きていられなかったからです。スピノザが、当時の宗教的権威を基盤とした社会秩序を根底から揺るがす「危険思想」を持っていることは知られていて、そのために生前も死後も長らく嫌われてきました。

私がこの本に出会ったのは大学生の時でしたが、ほとんど殺されても文句が言えないような境遇を自ら望むことが、今も全く理解できません。「基本的人権」という概念がまだ確立していない時代とはいえ、自由な思索というたったそれだけのために。ただ、この思想が人々から忌み嫌われながらも、時代の風雪に耐えて今も輝いているのはどうしてなんだろうとずっと関心を持ち続けてきました。

人が生きる意味…ってそもそも要るのか?的世界観

「究極のぼっち」スピノザが、命の危険に曝されるほど憎まれた理由は、彼が常識や権威に安住して生きる生き方を否定し、自らの自由な思想によって生きる生き方を肯定し、実践したからです。

彼が否定した一つに「目的論的世界観」があります。例えば、家は人間が住むために作り出した道具ですが、同じように太陽は人間が生きるために必要な光や熱を生む存在、と言えるでしょうか?人間にとって都合のよい目的が自然の節理の中にあるのではなく、むしろ、自然が与えた環境の中で人間は生かされているに過ぎないはずです。

一方、現代社会では、「人生の意味」については相変わらず、目的論的な世界観で考えざるを得ないのも人情です。人生には目的や納得がいく意味はない、となると、どうしたらいいのかわからなくなってしまいます。でも、私にとって生きる目的や意味が必要だからといって、それが与えられる必然性や保証は全くないんですよね。少なくとも自然の中には。だからこそ、その意味や役割を得て納得したい、安心したいと思ってしまうし、共同体の中で堅実に生きたいと、私は願わずにはいられません。

しかし、スピノザは違っていました。「人間社会に埋没」にしがちな私の生き方に対して、超然と立ちはだかる存在、それが私にとってのスピノザです。

その感情を抱く本当の理由なんて、わかるはずがない

スピノザの「人間の価値観を超えた自然の根本構造を明らかにしたい」という関心は「人間」にも容赦なく注がれています。

例えば、私は人から馬鹿にされることが大嫌いです。『サルのほうがお前より賢い』などと言われたら心外です。しかし、スピノザ曰く、『人間が成しえない多くのことを蜘蛛は容易に成し遂げる』と。確かに、理性的動物である人間の価値観では、人間はサルより賢いと言えるかもしれません。しかし、自然界では事情が異なるはずです。蜘蛛ですら、人間が成し遂げえないような多くのことを実現するのですから。こんな風に、人間もまた自然の一部であり、自然の多様な性質の一つなのだと謙虚に認めるのが、スピノザの世界観です。

スピノザに言わせると、怒りや憎しみといった感情についても同様です。実のところ、私たちは「あの人が憎い」といった欲求は意識できても、なぜそういう欲求に突き動かされるかは全く知りません。例えば、許せない相手のことを考えると必然的に悲しみ、憎たらしくなりますよね。しかし、同じ状況でも憎しみを持たない人もいるし、なぜ憎いのか「本当の理由」には辿り着けないでしょう。要するに、感情を構造としてみると、ある状態から別の状態に決定されている、というだけのことです。はっきりしているのは「憎しんでいる相手のことを考え続ける限りは、怒りは収まらない」という点だけです。私たちは多様な感情に突き動かされますが、その原因については無知です。

感情に支配されず、能動的に自己認識する意味

スピノザの感情に対するアプローチは、人間の心の動きを動物や虫の行動と同じように、必然的な構造として観察しているという点に大きな特色があります。感情に振り回されず、自分自身の能力を発揮していくためには、自分自身も自然の一部であることを認める謙虚さが出発点になる、と彼は考えていたようです。そのメリットとは平たく言えば「バカになれる」という点でしょう。

例えば、憎い相手のことを考え続ける限り、その感情に支配され続ける、言わば受動的な状態です。しかし、この「受動的な状態」をスピノザのように必然として認識すると、自分が「認識する」能力を能動的に発揮している状態にステータスが変わります。すると、感情が完全に消えないとしても、開放された状態になります。

構造だけを問題にする彼の感情に対する見方は、一見すると冷徹です。しかし、その根底には、感情に対する隷属状態からの解放という積極的な人間の可能性を開拓するという、熱い意図があります。人間はスピノザが指摘するように、多様な感情に突き動かされながら、それでいて自分は自由意志によって行動していると誤解しているような無知な存在かもしれません。しかし、私たちは人間もまた自然の多様な性質の一つの現れとして、自然の普遍的な構造の中で必然として存在していると認識を改めることもできます。スピノザの哲学は、自由に選択しているつもりで感情に隷属している状態よりも、「ものを必然として観る」という態度を人間本来の能力が能動的に発揮された状態として推奨しています。自然を全て俯瞰してわかったような態度を取ったり、意味不明な他者へのマウントを示すのではなく、自らが自然の一部として、自然と一体となって生きる勇気を与えてくれる哲学です。自然そのものの普遍的な構造の中で、自由に生きることを教えてくれる哲学ともいえるかもしれません。

彼は、この魅力の故に、憎まれていたというのは何とも皮肉ですが、それすらもきっとスピノザの言い難い魅力の一つなのでしょう。これからも『エチカ』を読み続けたいと思います。

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山中 哲人
山中 哲人
ディレクター、ライター
クラシック音楽関係の出版社からIT業界に飛び込みました。クラシック音楽と思想書、登山をこよなく愛していますが、最近はシステム関連の本もよく読んでいます。これまでの様々な経験から、日々の生活、ビジネスに役立つと思えることを書いていきます。
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