「イン・ザ・メガチャーチ」で読む推し文化の作為と消費の物語
2026年の本屋大賞を受賞した、朝井リョウ著『イン・ザ・メガチャーチ』は、現代の「推し活」文化を舞台にした小説です。ただし、この作品は推し活を肯定も否定もしていません。仕掛ける側、のめり込む側、かつてのめり込んでいた側という三つの視点から、人の心を動かす「物語」の構造を解像度高く晒しています。広告という「仕掛ける側」の末席に長年いる筆者が、ザラザラとした読後感を抱えながら、この小説について書いてみます。
▼イン・ザ・メガチャーチ 朝井リョウ(著) 日経BP 日本経済新聞出版
https://www.amazon.co.jp/dp/B0FNW8F843/
注意:ネタバレあって長いです
この記事は、小説の内容に関するネタバレを含んでいます。また、これはあくまでもこの記事の筆者である私個人の考えを示しているに過ぎず、BlueMemeの見解を示すものではありません。
技術書やトレンド分析と違って、とりわけ小説について書くとき、自分がどこに感銘を受けたか、もっといえば、どれくらいなぜ傷ついたかを開示することは、自分自身と向き合う残酷な行為です。とはいえ、全く読者の役に立たない、ただの個人的な読書感想文にするつもりもないので、広告やマーケティングの変化も絡めながら書いてみました。文字数もかなり多いのでご注意を(実は、この本はBlueMeme松岡さんからのお題!)。
「沈みゆく列島で、”界隈”は沸騰する」
この小説のキャッチフレーズが、これ。最初に連載されたのは、2023年4月から2024年6月にかけての日本経済新聞夕刊です。ビジネス色の強いメディアだったのも、今になって興味深く思います。
連載期間中の日本は、社会不安の材料に事欠きませんでした。
2023年7月には日経平均株価がバブル後最高値の3万3,753円を記録し、株式市場は33年ぶりの高値圏に。一方、賃上げは物価上昇に追いつかず、市井の生活実感はかけ離れていました。ジャニー喜多川氏による性加害問題が大きな社会問題となり、旧統一教会と政治の癒着も明らかになりました。2024年元日には能登半島地震が起き、観測史上最も暑かった同年の夏は「地球沸騰化の時代」と警告されました。
同じ時期、電通の調査によれば日本の総広告費は7兆3,167億円(2023年)から7兆6,730億円(2024年)へと拡大し、過去最高を更新し続けました。内訳を見ると、インターネット広告費が総広告費の45%を超えて最大シェアとなり、「人を動かす物語」の主戦場は、完全にデジタルへとシフトしました。テレビや新聞といったマス四媒体は、今も縮小の一途を辿っています。
権威への不信と、それでも何かを信じたいという渇望が、同時に高まっていた時代です。この小説は、そうした時代の空気の中で書かれました。
出典:
データで読む三つの登場人物、三つの視点
物語は、世代も立場も異なる三人の視点が章単位で分かれ、交互に展開していきます。なお、意図的に外されているんでしょう、Kindle版はそれぞれの章にジャンプできるリンク付きの目次はありません。
- 推し活経済を仕掛ける側の会社員:久保田 慶彦
- のめり込む側の大学生:武藤 澄香
- かつてのめり込んでいた側の契約社員:隅川 絢子
ここでちょっと、IT企業のオウンドメディアであるリープリーパーっぽいこともやってみました。
読後、この三人の章のテキストをコーパス(言語データベース)分析してみました。小説全体で約24万字。文字数の比率は久保田章42%、武藤章32%、隅川章26%でした。
各章では、人物の発話文と、光景を描写する地の文が散りばめられているため、単純にキーワードの出現頻度がその人物の考え方を示しているわけではないでしょう。しかし、集計してみると興味深い偏りが見えてきました。
例えば、「物語」という言葉は、久保田章に112回登場します。武藤章では20回、隅川章では15回。「気質」も久保田章71回に対して武藤章21回、隅川章にはわずか1回。仕掛ける側だけが「物語」の存在や創作を意識し、「気質」を分析する。のめり込む・のめり込ませられる側は、それを知らないまま飲み込まれていく。
一方、「世界」の最多使用者は武藤章(55回)です。「真実」35回と「信じ」8回は隅川章に集中しています。かつてのめり込んでいた側だけが、現実とは乖離した「真実」を探し、信じたい物語を「信じる」様子が痛々しい。
そして全体を通じて「視野」という言葉が117回登場するのも、この小説の特徴です。推し活の話であると同時に、人は何が見えていて何が見えていないかを問う物語であることが、数字にも表れているように感じました。


一つ気づいたことがあります。武藤 澄香の名前と隅川 絢子の名字の最初は、どちらも「すみ」という音で始まっています。つまり、本来ならどちらが「すみちゃん」呼びされてもおかしくない。これは、この二人が決して離れた存在ではなく、行くところまで行けばいつか重なりうることを暗示した、作者の意図的な設計ではないかと感じました。
ちなみに、象徴としてのチャーチ(教会)的な存在への直接的な言及は、全体の70%近くに来たところで初めて出てきます。タイトル以外に、敢えて重要な意味を持たせていないのは、なぜなんでしょうね。
「仕掛ける側」にいた自分のこと
友だちのいない中年男性の久保田が苛まれるミドルエイジクライシスの描写には、息が詰まりそうでした。しかし、最も注意を引かれた人物は彼ではなく、彼と一緒にチームに参加した国見でした。一番関わりたくない、イヤなタイプです。
なぜかと問われれば、間違いなく自分の中に反応する成分があるはずだから。広告という仕事を通じて「人の感情を動かす仕組み」を少なからず設計・提案してきた経験がある人間には、国見の論理がわかってしまう。わかってしまうから、余計にイヤになる。
ただ、私が国見と大きく違う点が一つあります。彼がやっているのは(マインド)コントロール=制御・監視であって、マネージメント=支援・管理ではありません。相手の行動を予測可能な範囲に収め、ファンの熱量を自在に操り、自分が設計した落とし穴へと誘導する。それは人を人間ではなく「変数」として扱う発想です。これは、技術や設計の問題ではなく、思想や哲学の問題です。もし、同じチームになったら、確実に衝突していた自信があります(そして毎度私が負ける…)。
マーケティングオートメーションがAIで強化されても、ファンの熱量や向かう先を完全にコントロールすることはできません。そもそも、すべきでもありません。ソーシャルメディアで私が意識してきたのは、コントロールではなくマネージメントだから。だからといって、私は後者の方が「正義」だと主張したいわけではなく、ファンの感情の起伏を徒に煽って疲れさせない方が「長期的には儲かる」と思っているからでもあります。
▼青い象のことだけは考えないで! : トルステン・ハーフェナー, ミヒャエル・シュピッツバート, 福原美穂子
https://www.amazon.co.jp/dp/4763132148/
なお、物語をマーケティング戦略に利用する手法は、別に新しくはありません。ソーシャルメディアが登場する以前から、似た手法を使うブランドは存在していました。
AppleがApple Computerだった時代、同社には「エバンジェリスト」という肩書きがありました。国見ほどのえげつなさはなく、多くは穏当な布教活動を担う宣教師役でしたが、これもある種の「物語の使者」でした。また、伝説の「Think Different」キャンペーンしかり(国見はS.ジョブズと話が合いそうですが)。
テクノロジーが可能にしたのは、そうした手法の民主化とスケール化です。誰でも「物語を流通させる側」「一人運営サイド」になれる時代になった、とも言えます。小説には特に登場しませんが、今ならAIがそれをさらに加速させていることは、容易に想像できます。
▼The Real Story Behind Apple’s ‘Think Different’ Campaign
https://www.forbes.com/sites/onmarketing/2011/12/14/the-real-story-behind-apples-think-different-campaign
ストーリーテリングとナラティブ、そしてファンダム
ここで少し概念を整理します。
「物語」には2種類あります。一つは、話者と受け手が決まっていて、始まりと終わりがある「ストーリーテリング」。そしてもう一つが、話者と受け手が入れ替わりながら、終わりがない「ナラティブ」。
国見がコントロールしようとしているのは、自分たちに都合のいいストーリーテリングです。「こういう物語を信じさせれば、こういう行動を取る」という設計図。一方、推し活でファンの中に起きていることはナラティブです。ファンは「推し」を自分自身の人生の物語に組み込み、その意味を自分で作っていく。
▼ナラティブカンパニー―企業を変革する「物語」の力 電子書籍: 本田 哲也
https://www.amazon.co.jp/dp/B0919PM1YK
重要なのは、送り手が設計できるのはストーリーだけで、ナラティブは受け手の内側で起きるという点です。恐らく、国見はそこを意図的に無視している。そして武藤 澄香は、自分が作り出したナラティブを続けられなくなっていきます。
CGM(消費者が作るメディア)としてのソーシャルメディアの登場と爆発的な普及は、この構造を大きく変えました。かつては、独占的な伝送路を持つメディアが物語を流通させる主体でしたが、今はすべての人が発信者になれる。ファンダム(ファンの世界)はその延長線上にあります。推しについて語るファン同士が、対話を通じて互いのナラティブを強化し合い、コミュニティーを形成していきます。本屋大賞もまた、書店員というインフルエンサーでありコンシェルジュ主導のコミュニティーが生み出した、CGM的な文化現象といえるかもしれません。
ソーシャルメディアという増幅装置
現代の推し活を語る上で避けられないのが、ソーシャルメディアです。
2021年、Facebook(現Meta)の社員フランシス・ホーゲン氏は、Instagramの仕様が若年層、特に女性の自己評価とメンタルヘルスに深刻な悪影響を与えているという、内部調査結果を会社が隠蔽したと告発し、その後解雇されました。彼女の体験は、書籍化されています(日本語版未翻訳)。また、オーストラリアをはじめ複数の国では、16歳未満のソーシャルメディア利用を法律で禁止する動きが拡がっています。
これは推し活の問題ではなく、承認欲求と比較を設計した仕組みの問題です。Metaに限らず、ソーシャルメディアのアルゴリズムは、怒りや嫉妬、崇拝といった熱量の高い感情が、最もエンゲージメント(親密度)を高めるように設計されています。推し活の熱量は、その仕組みの上で最適化されていきます。
熱心なファンだったのに、些細なきっかけからしつこいアンチに変わってしまう。外部から叩かれることが、自分たちの正しさの証明となり、内部の結束が高まる。一旦は炎上しかけたものの、適切な緊急対策と透明性ある説明、謝罪と対策によって、評価が高まり見事に復活する。
フィルターバブルと呼ばれる、自分に都合のいい心地よく安全な泡に包まれている限り、人は永遠に快適に過ごせます。そして、自分たちが受け入れられる情報だけが、エコーチェンバー(共鳴室)の中で反響するうちに、どんどん先鋭化していき、「私たち vs あいつら」の分断が強化されていきます。
そこに正誤や善悪、右左のイデオロギーなど関係なく、バズまたは炎上して人々の注意関心さえ集めれば、それで広告費が稼げたり、承認欲求を満たせるアテンションエコノミー(関心経済)として成立してしまいます。
これらのサイクル自体がエンゲージメントを高める装置になっている以上、それを意図的に設計して狡猾に利用しようとする人間は、国見だけではないはずです。
軽蔑と羨望が同居する不快感
正直に白状すれば、私が、推し活に心血を注ぐ人たちに対して、愚かで無責任な他者依存を小馬鹿にする感情が、どこかにあることは否定しません。理解できない他者への断絶と諦めも確かにあります。ただ、それだけではないことが、自分をさらに苦しめている感覚がどうしても拭えないんです。
時に迷い苦しみながらでも、信仰の道を歩める献身的な姿勢への憧れと嫉妬。熱量を丸ごと誰かに預けられる、無辜の信頼。信じられる対象が消えてしまう恐怖への共感。そして、苦しい時に支え合える仲間たち。
回りくどい論理や理屈を一時停止して、ただその「界隈」の中にいられる能力を、自分は持っていないことへの苦しさも同時に混在しています。
何かを熱狂的に好きになったことはない癖に、かなりの恋愛体質だという自覚はあります。しかし、関心がなければ視界にも入らないわけで、「関わりたくない」と「目が離せない」は向きが違うだけで同じ引力かもしれません。
作中に、近年あちこちで見掛けるMBTI診断(ユングのタイプ論を元にした性格検査)が登場します。武藤の診断結果はINFP(仲介者)で、理想主義的で共感力に優れ、他者の評価軸を気にしやすい性格として描かれています。ただ、人が推し活にのめり込む理由を「気質のせい」と片付けるのは単純すぎでしょう。ファン全員が愚かだなどといえるはずがない。性格診断と同様に、仕組みを理解した上で意図的に使っている人もいるし、途中で醒めて離脱する人もいる。この小説もその多様性を描いています。
人は、自分が苦労して手に入れたものに、特別な価値を見出します。熱量をかけた対象は、それだけで「本物」に見えてしまう。ウォーク(woke 目覚めた人)として、昨日までの景色とは違うことに「気付いてしまう」。その心理は、誰かが設計したものではなく、人間の認知の構造から来ています。
界隈という絆、あるいは縛り
この小説でも現実でも「界隈」と呼ばれるコミュニティーは、別の言い方をすれば「絆」。ただし、絆とは「縛り」でもあります。
中心にいる構成員には快適な場ですが、周辺部や外側には荒野が待っています。コミュニティーを強化すればするほど、外との断絶が深まる。大きな災害や事故のたびに、絆という文字が安直に使われますが、高速に拡がるものは、高速に消費されるだけで、その後に残るのは熱狂の残骸です。
消費行動と倫理の矛盾は、誰もが抱えています。「この企業の姿勢には同意できない」と思いながらも、他に選択肢がないという現実の前に、結局使い続けざるを得ない—その矛盾を自覚しながら生きることは、界隈の外側に立ち続けることとどこかで似ています。
後から見聞きすると、著者本人が実際にアイドルオタクのよう。確かに、実体験に基づいたと思われる、細かくて丁寧、エグい描写がところどころに散りばめられていました。
本屋大賞という、もう一つのファンダム
ここで少し視点を変えます。
この小説に2026年の本屋大賞を与えたのは、全国490書店から集まった698人の書店員たちです。二次投票ではノミネート10作品をすべて読んだ上で、推薦理由とともに投票する。選考基準は「偉い人が面白いといっている」ではなく、「売りたい!」「この本を人に届けたい!」という意志です。
推し活の現実を描いた小説を、書店員という熱心なファンコミュニティーが選んだこの結果は、偶然ではないと思います。書店という場が危機に瀕している今、カフェの併設やイベント開催、棚貸し書店や無人書店など、さまざまに模索しながらも「本を人に届けたい」という動機が消えることはない。その動機の純粋さが、この小説のテーマと呼応しているのかもしれません。
芥川賞・直木賞が権威の構造で成立しているのに対し、本屋大賞は「現場の売り手が選ぶ」という民主的な設計で差別化しています。評価の正統性を「権威」ではなく「共感」に置く。これもまた、ある種のファンダム経済だといえそうです。
「信じる」vs「信頼しつつ監視する」
推し活といえば、近年、政治の推し活化が国内外で進んでいます。
アイドルへのファン心理は、自分が実現できない夢や希望を憧れの対象に託して崇める行為です。一方で政治家は、自分が実現したいことの代理人であり、投票で選んだ後は批判的思考で実行を監視するべき存在のはず。
この二つは似て非なるスタンスですが、前者に取り込まれている傾向があります。今年、独立宣言から250年を迎えるアメリカは、常にヒーロー・ヒロインの神話を必要としてきました。D.トランプ再選も、まんざら無関係ではないかもしれません。
「信じる」ことと「信頼しつつ批判的に監視する」ことは、まったく別の行為です。前者にはクリティカルシンキング(批判的思考)が介在しません。この差が、推し活をビジネス的・政治的に利用する構造と、民主主義の間にある根本的な違いです。
「ハンマーを手にした人は、全てが釘に見えて打てる釘を探し始める」ように、陰謀論へと傾いていく。人は辛い現実や受け入れ難い真実より、肌触りや耳に心地いい嘘に身を委ねてしまう。それは弱さではなく、答えのない問いを抱えたまま生きることの苦しさへの、自然な反応かもしれません。

出典:@Will Chambers
物語の外に出ることはできるのか?
作中に「神がいないこの国で人を操るには、物語を使うのが一番いい」という台詞があります。多神教的・アニミズム的な土壌を持つ日本には、「これひとつで全部説明できる絶対的な枠組み」がありません。その空白を心地よく埋めるように入ってくるのが、推し活や陰謀論、宗教的熱狂です。
小説の冒頭で久保田は、人生で還ってくるのは、これまでやってきたことより、これまでやってこなかったことの方かもしれないと、心情を吐露します。久保田は家庭という居場所を省みず、武藤は自我がわからないままで、隅川は安定した生活から離れている。そんな彼らの心の空白地帯に、魅力的な物語が忍び込みます。
久保田は最後まで、国見の指示通りに動くことができませんでした。自分が手を染めた物語に自分自身も取り込まれていき、あろうことか最愛の娘を蝕んでいく。最終盤は不幸な結末を予感させますが、彼が悪の語り手になりきれず、いつしか迎えることがわかっていた破綻であれば、それ以上の悪夢から解放される救済なのかもしれません。答えは出ませんが、ナラティブは続いていく…この小説で著者は結論を出してはいませんが、「時代の標本」の断面を鮮やかに切り出して見せたと感じました。
あなたは今、物語を使う側ですか?使われる側ですか?そして、その区別に気づいていますか?「作られた物語」であることが悟られることすら、織り込み済みの物語だとしたら…?
BlueMemeが提供しているB2Bのサービスは、推し活の対象になるようなB2Cのモノではありません。しかし、持続的な信頼が重要なことは、組織やブランドにとっても同じ。それは、AI時代になっても変わりません。
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