イジングモデル型量子コンピューター2:スピンとエネルギー

前回の記事では、量子力学や量子の基礎について解説しました。量子コンピューターは、「量子もつれ」を利用して計算を高速化させるコンピューターですが、この量子もつれを起こす方法によって2つの種類が考案されています。ひとつが「ゲート型」、もうひとつが「イジングモデル型」と呼ばれています。今回は、このイジングモデル型量子コンピューターについて説明します。
量子統計力学のモデルである「イジングモデル型」
ゲート型では、古典コンピューター(量子コンピューター以前のコンピューター)で例えるとANDやOR、NOTなどの論理演算をする「ゲート」と呼ばれる回路を用い、複数の量子をもつれさせます。ざっくり言うと、いろんな種類のゲートを順番に使っていくことで、多数の量子をいろんな形にもつれさせ、計算するのがゲート型です。
一方のイジングモデルは、物質の性質を研究するために考案された「量子統計力学」のモデルです。このことは以下を意味しています。
- 物質(固体)に関する、あるひとつのモデル
- 普通とは異なる振る舞いが見られる極小の世界で
- 多数の粒子が集まったときの総体的な性質を調べる分野の
量子統計力学、量子力学と統計力学の2つの分野の学問
量子統計力学についても説明が必要でしょう。これは、量子力学と統計力学の2つの分野が合わさった学問です。
量子力学:非常に小さな世界で成り立つ力学
まず「量子力学」ですが、これは前回の記事で説明したように、非常に小さな世界で成り立つ力学分野です。それに対し、普段接するようなスケールの世界で成り立つ法則を使って作られた電算機が、私たちが普段利用しているパソコンやスマートフォンなどの古典コンピューターです。
ここで、『でも、コンピューターって電気で動いているし、電子って量子力学の対象じゃない?』と思った方もいると思います。古典コンピューターの大本である、機械式計算機は1600年代に生まれました。当時は減算すら難しかったと言われていますが、それでも歯車を回すことで計算ができました。その仕組みを電子化した計算機が現在のコンピューターなので、電気で動いてはいますが、電子の量子性は利用していません。
統計力学:多数の粒子が集まったらどうなるか?の研究
次に「統計力学」ですが、これは多数の粒子が集まったら総体としてどんな振る舞いをするのか?を研究する分野です。例えば、気体の性質などを研究する分野ですね。私たちの普段接するスケールの世界では、ニュートンの運動方程式が成り立っているので、原理的には気体の分子全部の運動を計算すれば気体の性質がわかります。ですが現実的には、1.5Lペットボトルの中にある空気の分子ですら、大体10^22個(100垓、垓は京の10,000倍)あるので、厳密に現代のスーパーコンピューターで計算しようとしても、メモリが足りません。なので、気体としての性質を抜き出しながら自由度を削減しつつ、気体の性質に迫ろうとするのが統計力学です。
統計力学では自由度を削減する作業がありますが、それでも元になる運動方程式があります。古典力学のニュートンの運動方程式に立脚する場合は古典統計力学、量子力学のシュレディンガー方程式に立脚する場合が量子統計力学、というように呼び分けられています。
3次元の「スピン」とエネルギーとの関係
物質というのは多数の原子によって構成されていて、原子は原子核と電子から成り立っています。この辺りは、高校の化学で習う基本ですね。
物質の性質はいろいろな要素で決定されますが、その中でも大きく寄与するのは「最外殻電子」と呼ばれる電子です。また、量子力学では電子は量子の1つであり、「スピン」という性質を持ちます。このスピンは一般的には3次元的にどんな方向を向くこともできますが、それをそのまま扱うのは計算が難しいわけです。ということで、このスピンが「上」か「下」のどちらかしか取れない場合を考える、というのがイジングモデルです(このような簡略化をしない「ハイゼンベルグモデル」もありますが、今回は扱いません)。
原子同士が結合する時は、「電子対」を作ります。この電子対のエネルギーは2つの電子のスピンの向きにも依存します。スピンの向きが揃えばエネルギーが下がる物質もあれば、逆向きでエネルギーが下がる物質もあります。これは、実際に量子力学的な計算をしたり、実験で調べます。
物理においては、エネルギーが下がる方が安定するため、その状態が実現します。つまり、スピンの向きが揃えばエネルギーが下がる場合は、スピンの向きが揃うようになります。逆に、スピンが逆向きでエネルギーが下がる場合は、スピンの向きが逆になります。ちなみに、スピンは磁性と関係しています。物質内にある、小さな磁石と思ってもらえればいいでしょう。
ここで「量子もつれ」が発生しています。というのも、スピンが同じ向きに揃えばエネルギーが下がる、というのは、前回の記事で説明した、『量子を相互作用させると、例えば量子が同じ値にしかならない状態を作り出せる』という現象を引き起こすからです。
この図では、各場所のエネルギーが下がるように配置すれば、全体のエネルギーが下がるようになっています。しかし、物質の中には、一部だけエネルギーが上がる配置にした方が、全体的にはエネルギーが下がるという結合の配置があります。それが下の図です。
イジングモデルでは、全体のエネルギーが最も低くなるような状態を計算します。これは、前述のように、実際の物質がそのような性質を持っているからです。上の図でも、実際に実現するのは左側です。
一旦、激しくスピンさせてから安定させる「量子アニーリング」
エネルギーの低い状態というのは、いくつか候補が存在する場合があります。ある程度下がる状態と、最も下がる状態のスピンの並び方が全然違う場合、初期状態によっては、最も下がる状態にはなりにくい場合があります。そういう時は、実はエネルギー(温度)を上げ、スピンの動きがより激しくなる状態にした方が、最もエネルギーが下がる状態を達成できるようになります。イジングモデル上でこの手法を「量子アニーリング」と言います。
ChatGPTにもある「温度」というパラメーター
統計力学において「温度」は、ランダム性を制御するパラメーターとして扱われています。実は、大きな話題になっている対話型AIの機械学習にも統計力学の考え方は利用されていて、この温度というパラメーターが存在することがあります。例えば、ChatGPTには、temperatureというパラメーターが存在していて、これを高くし過ぎると回答がめちゃくちゃになるのが見られます。これは、温度を上げすぎる=ランダム性を上げ過ぎたことによる現象です。
物質の性質を使うイジングモデル型量子コンピューター
物質は—というよりは自然は、といった方が正しいかもしれませんが、エネルギーが最も低くなるような最適な量子状態を勝手に取るという性質を持っています。しかし、そのままだとスピンは3次元的に動いてしまい、コンピューターとしては利用しづらいです。これを、2値しか取れないようにすることで、コンピューターとして使い勝手がよくなるわけです。2値しか取れない物質中の量子モデルが「イジングモデル」と呼ばれているので、そのような仕組みを持つ量子コンピューターを「イジングモデル型」と呼ぶわけですね。
勝手に最適な量子状態になるという性質を利用するので、当然、イジングモデル型は「最適化問題」が得意です。最適化問題は、古典コンピューターはあまり得意ではないタイプの問題です。その理由は、古典コンピューターでは、問題を解く上で必要な条件や要素の組み合わせによって、計算量が爆発的に増加する「組み合せ爆発」が起きるためです。
イジングモデル型の量子コンピューターを使えば、最適化問題を効率的に解くことができるのではないかと期待されています。ただし、解きたい問題をイジングモデルに適した形に落とし込む必要があります。また、最適化問題以外には利用しづらい方式でもあります。汎用量子コンピューターとしては不向きなので、ゲート型に比べるとまだちょっと規模が小さいのが現状です。
2回の記事で説明したように、イジングモデル型量子コンピューターは、物質の結合に対して最適な状態を取るという性質を利用しています。仕組みとしては理解しやすいですが、広く使われるにはまだいくつも課題があります。
それでも、カナダの企業D-Wave Systems社が、イジングモデル型量子コンピューターを新型コロナウイルスの研究に無償開放したり、他にも具体的な商用利用を展開する動きもあります。量子コンピューターに興味がある方は、ゲート型だけでなくイジングモデル型についても注意しておくといいでしょう。